公開日 2022年11月12日
こんにちは
今日は、チェコを代表する作曲家アントニン・ドヴォルザークの代表的交響曲「新世界『より』」を取り上げましょう。
1893年、新しい交響曲に着手したドヴォルザークが5月に完成させたのが、今回ご紹介する交響曲第9番「新世界より」です。標題の「新世界より」はドヴォルザーク自身がスコア(総譜)の表紙にチェコ語(英語)で「Z nového světa( From the New World)」と記しています。
無類の鉄道好きだった
1841年、現在ではチェコの首都となっているプラハの北30キロほどの小さな町に生まれたドヴォルザークは、苦学して音楽の道に進みました。実家の両親は音楽を職業にすることに反対し家業の食料品店を継がせたかったのですが、彼の才能に着目した音楽の教師たちが少年にプラハに出て学び続けるよう勧めたのです。
この時のプラハはまだハプスブルグ家の帝国の一都市に過ぎず、チェコ民族主義の高まりはあったものの、首都となるのはオーストリア帝国が崩壊する第1次大戦後と、まだまだずっと後のことでした。
余談ですが、ドヴォルザークは、無類の鉄道好きとして知られますが、これは、当時のオーストリア帝国の政策で、北のプロイセンに対抗して国の隅々にまで鉄道建設が推進されたため、彼の生家のすぐ裏に、まだ物珍しかった線路が施設されて汽車が走り、幼少期からそれを眺めていたことが影響している・・との説があります。
50歳で決断、新天地米国へ
プラハで、最初は弦楽器奏者として、それから音楽教師として、プロ活動を始めたドヴォルザークは、コンクールに応募するために大規模な作品を作曲し始めます。次第に頭角を現したドヴォルザークは帝都ウィーンで活躍していたブラームスなどにも認められ、人気作品を生み出していきます。それらの作品は、出版社の意向も入っていたとはいえ、彼自身の故郷、ボヘミアの「スラヴ的」旋律にあふれていて、それが当時の風潮に受け入れられて大ヒットとなるのです。すなわち、ウィーンなどの音楽中心地の聴衆にとっては、「周辺国」のエキゾチックな文化が物珍しく響き、チェコなどまだ独立前の「周辺国」住民にとっては、自分たちのアイデンティティーを確認するよりどころとなったのでした。
ドヴォルザークは、チェコを代表する作曲家となり、円熟期を迎えます。有名になると、国外に招かれることも多くなり、特に英国には何度も足を運んで演奏などを行ったり、現地で出版契約を結んだりしましたが、彼の気持ちは常にボヘミアとともにありました。そして、ボヘミアは、言語的にもスラヴに属する、ということで、彼の作品にはつねに「スラヴ的なもの」が感じられ、人々も、それを期待したのです。
いくら活躍しても、チェコを動こうとしなかったドヴォルザークですが、50歳の時、新興国米国から音楽院に招聘される話が舞い込みます。一旦は断ったものの、子沢山のドヴォルザークは、提示された破格の給料にも、そして、新興国米国の鉄道にも魅力を感じ、ついには米国行きの決断をします。
「スラヴの魂」を込めた曲
ドヴォルザークはニューヨークの繁栄と巨大な街に驚くと同時に、故郷ボヘミアの地を思い出しホームシックにかかったそうです。
この作品は新世界アメリカでインスパイアされた民族音楽からの影響を受けて描かれた作品と言うよりは、それらの民族音楽を通じて感じた故郷ボヘミアへの望郷の念が表れた作品と言う側面の方が強いように感じます。
交響曲第9番「新世界より」はドヴォルザークの代表作としてだけではなく、交響曲の歴史に名を留める傑作として世に知られることになりました。
円熟期のドヴォルザークが、ついに祖国を離れて一時的にせよ、新大陸に渡ることを決断した時に書いた「スラヴの魂」を込めた曲、それは、「スラヴ」を売りにしようという営業政策的打算ではなく、新大陸に旅立つ前に、真に彼が祖国とスラヴ文化を考えた時に誕生した旋律・・・そんな想いがわいてきます。
チェコに生まれ、チェコと鉄道をこよなく愛したドヴォルザークの
代表作ぜひ聴いてみてください
2楽章が有名です
https://youtu.be/Yj06uN0Xov8?t=3
「家路」「遠き山に日は落ちて」などのタイトルは実に曲想にマッチしていて、落日を背景とした美しい風景が目に浮かぶようです。