【どうする家康】家康の不動産投資の優れた着眼点が江戸幕府の設立の礎となった!?

公開日 2023年01月08日

こんにちは

本日より 大河ドラマの新作 「どうする家康」がはじまりましたね。

その主人公徳川家康は「不動産目利き」の達人だったという話 調べてみました。

徳川家康(江戸幕府)なくして、今日の国際都市:東京はないといえる。

 徳川家康は何故、江戸を徳川幕府開闢の地と決めたのか。

よく言う説は 豊臣秀吉の「家康に対する警戒心」がその背景とあったといえる。秀吉は家臣(大名家)の中から「五大老」「三中老」「五奉行」を設け、重鎮体制を執った。

 だが本心は、石田光成(五奉行の一人)を豊臣時代の継続を図るための中核人物と決めていた。そして最も豊臣時代を危うくする人物として、五大老に据えた家康を警戒していた。

 「最高格」の五大老へ重用し取り立てたその胸の内は、「名誉という飴をしゃぶらせ、牙を研ぎ澄まさせたくなかったから」である。「飴」を与えながらその一方では今の東海地域に有していた家康の領地を関東に変え、大阪との距離を隔てさせる策を打った。

 家康が関東=江戸に拠点を構えたのは1590年(天正18年)。徳川幕府を設立したのは1603年(慶長8年)。その後、歴史の教科書で馴染みの両雄の直接対決が起こった。「大坂冬の陣(慶長9年)/夏の陣(同10年)」。徳川軍は勝利し、家康の江戸づくりは本格化した。

 ところが 不動産投資という目から見直すと、こんな仮説も成り立つ。

『家康の不動産投資の優れた着眼点が江戸幕府の設立の礎となった』という見方である。それは、以下のような観点から指摘できる。

 (I)大都市が栄える地形条件:「大」の冠がつけられるようになった都市の歴史を振り返ると、共通項が確認できる。「周囲に広大な土地を有している」「海や大きな川に面している」である。前者では、江戸から北には関東平野が広がっていた。後者では、東京湾や最大級の利根川水域に象徴的。

 (II)好都合な拠点地:日本橋川に橋(日本橋)が架けられたのは江戸幕府開設と同じ1603年とされる。家康は日本橋を五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)の、陸路のかっこうな拠点と考えた。

 (III)かっこうな流通拠点:江戸湾を「ハブ港」とした全国の海路流通網の確立が可能と考えた。陸路の流通体制では電車も車(トラック)もない時代、時間コストが掛かりすぎる。海路網の整備なくして江戸の繁栄はありえない。

 江戸の民が生活する上の移動手段は足以外にはせいぜい「籠」、「馬」。そして川が多かった彼の地では「船」が不可欠だった。

 江戸の民は船を愛用した。「緒牙舟(ちょきぶね。船先が尖った舟)」、それより一回り小さい「百文舟(自ら掉さし操る)」などなど。海路の流通には「樽舟(酒樽を運ぶ)」「菱垣廻船(酒以外の物を運ぶ)」等々。四方を海に囲まれた日本国では、相応の船舶技術が研磨されていた。

 とはいえ、幕府開設時の江戸の地は一口で言えば「海流が入り込んだ弱い地盤の不毛湿地帯」。

家康はそんな土地でも前記した観点から「かっこうの地」「将来性の高い地」と認めたからこそ、今の東京の中心部まであった海を積極的に埋め立てていった。ちなみに8代将軍の吉宗の時代:1721(享保6年)の江戸の人口は約110万人。同じ時期のロンドンの人口は約70万人、パリ約50万人という記録がある。

 まとめ
そう。家康は今流にいえば「先々を見据えた不動産投資の妙」を心得ていたと考えられます。
徳川家康は「不動産目利き」の達人だったのですね。

この着眼点から 大河ドラマを見るのは益々楽しみですね。